第2章 変貌する恵庭
第1節 純農村恵庭 現在の恵庭市域には、数千年前から人が居住していた。数百年〜数千年、あるいはそれ以上の古い時代の遺跡や遺物があちこちから発掘され、新たな発見も次々と出土している。そこにはアイヌ民族やそれ以前にはその祖先にあたると思われる人々が社会を形成し、生活を営んでいた。
近世に入り、松前藩政が次第に蝦夷地に伸張していくなかで、恵庭市域には漁(いざり)場所と島松(しままつ)場所という2つの知行場所が開かれた。漁はアイヌ語地名イチャン(鮭の産卵場所の意)に由来し、島松はシュママクペツ(石の後背なる川の意)に由来する。そこはイチャンの名も示す通り鮭を中心とした漁猟の場であり、また人々は交易を営んで収益を挙げていた。
この時期の恵庭市域において、もう1つさかんにおこなわれていたのは伐木であった。18世紀中頃から、松前藩の伐木が江差・桧山から北海道各地に広がっていった。その中で、石狩における伐木の主な事業地が漁川上流であり、流送によって漁川から千歳川そして石狩川と下らせ、石狩川河口から本州方面へ積み出していたのである。
その後、明治維新を経て、開拓使設置により北海道開拓が本格化していった。恵庭にも入殖が開始されていくのである。第2章では、入殖以後の恵庭を追っていくとともに、警察予備隊の駐屯以降、急激に変貌していく恵庭にスポットをあてる。
第1節 純農村恵庭
北海道開拓使がおかれ、恵庭(当時は漁村と島松村)に入殖がなされて以後、約100年間にわたって恵庭は農業を基幹産業とし、また発展の礎としてきた。第1節では、戦後における急激な変化を経験するまでの“純農村恵庭”の生い立ちと経過を中心にして、他産業や交通を含めた恵庭を振り返る(参考資料:図表2−1)。
(1)恵庭入殖と農業の始まり
恵庭市域において初めて入殖を行ったのは、千歳郡をはじめ、勇払郡、夕張郡の3郡の支配開拓を明治政府から割り付けられた高知藩であった。高知藩では、1869年に入殖者を募集し、翌年から開拓を始めた。そして漁太において約1ヘクタールを開拓し、そばや水稲などを栽培したが、水害によって開拓小屋ごと流されるなど耕作は困難を極めた。そのようななかで、1872年に廃藩置県がおこなわれた。北海道全体の行政についても諸藩の管轄支配から開拓使の手に移り、高知藩による入殖民も北海道から引き上げることとなった。一方、高知藩の引き上げと同年に恵庭に入殖したのが、中山久蔵であった。中山は、島松沢に入殖し、道央部における米作を初めて成功・定着させた。さらに島松沢において中山は、大豆、馬鈴薯、小麦などを作っていった。この後も、入殖者が恵庭市域の各地に入ってきて、農業が恵庭に定着してくることになる。
また、この時期1873年に、島松に駅逓が置かれた。もともと、恵庭は太平洋と日本海を結ぶ重要ルート上にあって、1857年には勇払から銭函を結ぶ「札幌越え新道」が整備されていた。それに加え、北海道への移住者が増えてくるにつれ、このルートの道路整備がますます重要となり、「札幌本道」がこの時期に整備されることとなった。そのうち1873年には、札幌〜室蘭間が完成され、同時に島松に通行人の利便をはかるための駅逓が設置されたのである。
他に1876年には、恵庭において官営漁村放牧場が設置されている。牛馬合わせて200頭強を飼育していたが、漁村の地味は乾燥が強く牧草に適さないため、1980年からは秋夏の間だけ牛を放牧するようになった。しかし、この放牧場が恵庭の畜産のさきがけとなった。明治後期には、いくつかの民間牧場が開かれ、そして大正期になると酪農が営まれていったのである。
(2)本格的入殖の開始と農業振興
明治初期において、中山久蔵をはじめとする入殖者が定住し、開拓がスタートした恵庭であったが、本格的な開拓期に入ったのは明治中期の事であった。すなわち1886年、山口県からの団体移住による入殖である。68戸358人という規模で移住した彼らは、水害・冷害などに悩まされながら、開拓を続けていった。
さらに1893年には、加越能開耕株式会社が設立された。これは加賀(石川県)、越中(富山県)、能登(石川県)地方を対象に移民を募集し、小作人として開墾をおこなわせるという株式会社であり、78戸の移民が集まり入殖を開始した。そして、この時期のあとにも、災害などの理由で新天地を北海道に求めざるを得なくなった人々を中心に、多数の入殖者が次々に恵庭にやってくることになった。これら人口増に伴い1897年には、漁村と島松村の2村を管轄する独立した戸長役場が設置されることとなった。
こうして年々移民するものも増え、恵庭の人口は着実に増加していった。図表2−1よっても1897年から1904年にかけて恵庭の人口が急激に増加しているのがわかる。この7年間に人口は5倍以上となり、3000人を超えた。恵庭の入殖と農業の発展は、この時期から本格的に始まったと言えるのである。
(3)恵庭村誕生と他産業
入殖により人口を増加させてきた恵庭だが、恵庭村が正式に誕生したのは、北海道二級町村制が施行された1906年のことであった。これにより漁・島松の両村を合併し恵庭村とし、旧来の漁村と島松村を大字として恵庭村が発足したのである。
こうしたなか、農業に関しては必ずしも順調だったわけではなかった。漁川と千歳川の合流点では例年のように水害に見まわれた。冷害による凶作や樽前山の噴火などの災害があり、厳しい生活と農業経営が続いた。
他産業について触れると、林業は恵庭にとって農業に次ぐ産業であった。松前藩政期から伐木がおこなわれていた事は先に触れた。開拓期に至っても、戦時下や戦後復興材などとして、恵庭の木材の出荷は続いた。現在でも恵庭は市域の約2分の1を山林が占めているものの、山林のほとんどが国有林で占められていることもあり、林業は細々と続いているのみである。
恵庭の工業に関しては、明治後期までは特に見るべきものがなかった。大正期に入り、林業に関連した木工所が相次いで建ち、醤油・味噌・酒などの地元向けの醸造業が営業されたが、これらは基盤産業の農業の豊作・不作に大きく左右され、常に盛衰を見せ休業廃業を繰り返していた。昭和には、農産加工所として澱粉製造工場ができたが、本格的な工業の発達は、第3章で述べるように、戦後を待つ事になる。
また鉱業については、昭和初期から恵庭鉱山と光龍鉱山という2つの金銀鉱において採掘がおこなわれた。一時は、鉱山近くに小学校を新設するほどの盛況だったが、第2次大戦中の金政策によって縮小された。現在でも、規模は縮小されたものの採掘は続けられている。
商業については、開拓当初は恵庭には商店が無く、千歳や札幌まで買出しに出かけていく状況にあった。最初に商業を営むものが現れたのは、人口が定着を見せはじめた明治も半ばの頃であったという。雑貨店をはじめ呉服屋、飲食店が出店を始めた。大正期には、人口増と駅設置に伴って小売店が多数出店したが、これはむしろ濫立気味で、しかも恵庭は純農村でもあった。ようやく定着性が高まったとはいえ、いまだ消費性が伴う段階ではなく、ひとたび水害や凶作になると、売り掛け金が回収不能となって、やむなく小売店が廃業を余儀なくされるという状況がつづいた。恵庭の商業が、こうした一進一退の経過をたどるうちに、戦時下における統制経済の時代がやってきて、商店は配給店となったまま終戦を迎えることになるのである。
一方、交通に関しては大きな変化があった。1926年、苗穂と沼ノ端間の鉄道が開通したのである。恵庭には、恵庭駅と島松駅という2つの駅が開設された。これによって、徒歩か馬車、もしくは千歳川を利用しての水路による輸送をおこなっていた物流の状況が一変した。日常必需品を始めとして、物を短時間に大量に運ぶ手段が出来たのである。具体的なメリットとしては、恵庭で生産された農作物を消費地札幌へ大量に輸送することが可能になったのである。
このように恵庭は入殖以来、農業が恵庭の主要産業であることは一貫して変わる事が無かった。この“純農村恵庭”に急激な変化が訪れるのは、戦後しばらくしてのことであった。
第2節 基地のマチ恵庭
開拓期以来、純農村であった恵庭だが、図表2−2にも示されるとおり、戦後にも着実な人口増加をし、ついに1951年に町制を施行した。そして恵庭町となってからも、その人口増加のペースは上昇を続けている。実は、その急激な人口増加は、自衛隊の基地の設置に大きく関わっているものであった。そして基地設置によって、恵庭は“純農村恵庭”から“基地のマチ恵庭”へと変貌していったのである。第2節では、恵庭の基地の誘致と設置の経緯を明らかにし、基地が恵庭に与えた影響を検証する。
(1)警察予備隊誘致
純農村の恵庭であったが、西部丘陵地域には1901年から陸軍の演習場が存在した。これは1080万坪にも及ぶ面積を持ち、中国東北部の地形を模して設計された演習地であった。しかし当時は出兵前の大演習を除いては、演習と言っても年に2〜3回程度のものであって、樹木も茂り牛馬の放牧や採草も許されるというのんびりしたものであった。また1943年には、陸軍の北部教育隊が置かれたが、これも短期間の訓練をおこなうという、いわゆる即製の下士官教育部隊であって、駐屯というほどではなかった。
それが一変したのは皮肉なことに、敗戦を迎えて以後の事であった。演習地が米軍の進駐により接収され、演習に使われるようになった。破壊力の大きい近代兵器の使用や朝鮮戦争出動前の猛訓練などに使用された演習場は荒廃に帰し、ここを水源とする農業に悪影響を与えるようになったのである。しかし、その一方で米軍オクラホマ部隊の駐留は、恵庭に大きな刺激を与えた。駐留軍はいわゆるキャンプ部隊であったが、それでもこの部隊を対象にサービス施設・飲食店が林立し、歓楽街として栄恵町が出現した。そこには、カーキ色の兵隊がノレンをかきわけて出入りし、まさに夜明けを知らない賑わいを見せた。
こうした状況のなかで、朝鮮戦争の発生もあって、1950年警察予備隊の創設が決定された。おりしも恵庭村では、前年に鉄道教習所が廃止されたこともあって、その用地を含めた対策に苦慮していた。そこで警察予備隊の創設、さらに道内に1ヵ所基地を設置するという決定を受けて、恵庭村はその誘致に走ったのである。
この誘致をおこなうにあたって、恵庭村が強調したのは次のような点であった。
@恵庭村の用地は国有地であり、新たに用地を取得しなくて良い。
A北部教育隊や鉄道教習所の建物が、ただちにそのまま利用できる。
B戦前の陸軍北部教育隊の実績があり、行政にノウハウがあること。
C基地に対して、村をあげてあらゆる便宜を図る事の約束。
特に@とAは、設立当初の警察予備隊にとって、予算が限られているなかでなによりの魅力であった。恵庭村も国司村長をはじめとする熱心な誘致活動を行った結果、恵庭に警察予備隊創設と同時に基地が置かれることが決定されたのである。
1950年8月には、現在の北恵庭駐屯地に予備隊の設営部隊、約300人が先行到着した。恵庭村は、主婦100人程をかき集め、隊員の三度の食事の炊事を担当した。さらには、隊内清掃から基地内の草刈まであらゆる雑事をおこなったのである。
これらの恵庭村の協力的行動や用地提供などの予備隊にとっての好条件もあって、以後も恵庭には駐屯地が増加していくことになった。1952年には南恵庭駐屯地が創設され、また北海道補給処本部が島松に設置された。1952年10月の保安隊への変更時には、北海道の直轄部隊は、札幌、苗穂、島松、北恵庭、南恵庭、千歳、幌別、函館、岩見沢の9ヵ所に配置されていたが、そのうちの3ヵ所が恵庭に集中していたことになる。1954年には保安隊は自衛隊へと改称されたが、さらに1955年には東恵庭通信所が設置されることとなった。
こうして1950年からわずか6年間で、恵庭には4つの駐屯地が設置され、まさに全町防衛基地化の感すらあった。この結果、恵庭は従来の純農村としての性格を急激に変貌させていったのである。
(2)自衛隊と恵庭
1950年代前半に次々と設置された自衛隊の基地の存在によって、恵庭はもはや純農村とは言えなくなっていた。ここでは、自衛隊基地の駐屯が恵庭に与えた影響と変化を主に人口面から検証していく。
第3節 工場誘致政策の開始
第2節で述べたように、1950年代に恵庭は大きな変化を経験した。かつては農業経済を基盤とする産業構造を持ちながら、1950年代末には自衛隊駐屯基地を持ち消費都市として商業など第3次産業が伸長を続けているという状況にあった。さらに、米軍の要請でおこなわれた国道36号線の舗装を中心とする道路交通網の整備により、恵庭からの札幌市や千歳などとの時間的距離が縮まり、輸送効率が高まっていた。こうしたなかで1959年、恵庭町は「恵庭町工場誘致条例」を制定した。
(1)恵庭町工場誘致条例
第2章第1節で前述したように、第二次世界大戦以前の恵庭の工業といっても、切り出された木材を加工する木工場か、地元で消費される味噌などの醸造がほとんどであった。戦後もその状況は続き、1949年においても工場数は13を数えるのみであり、1958年に至っても20に過ぎなかった。
しかし、その背後では恵庭を工業化に向かわせる要素が整いつつあった。まず、この時期が高度成長期であり、日本の工業開発が急速に進んでいたことが挙げられる。さらに恵庭が立地的に札幌と室蘭を結ぶ道央に位置していたこと、工業用地の低廉さ、工業用水の豊富さなどの条件を備え、工業用地として狙われる地域であった。そして、決定打となったのが、1953年に完成した国道36号線の舗装であった。もともと米軍の要請で整備された国道36号線であったが、これによって恵庭は工業団地にとって最も重要な流通の利便を獲得したのである。
また自衛隊基地により消費都市化しつつあった恵庭は、従来の産業基盤であった農業が揺らぎ始めていた。そこで恵庭町としても、従来の農業主体の政策を転換する必要性に迫られており、柏木工業団地と戸磯恵南工業団地を作り用地を確保した上で、1959年に「恵庭町工場誘致条例」を議決したのである。その工業誘致条例の目的と定義を表した主要条文は次のようなものであった。
(目的)
本町の産業興隆に寄与する工場を新たに設置した場合、この条例の定めるところにより助成するほか、工場設置につき、諸般の援助をして本町工業の開発促進をはかることを目的とする。
(定義)
1、この条例で「工場」とは、物の製造又は加工の作業をおこなう施設及び設備をいう。
2、この条例で「助成」とは、補助金、斡旋、整備、貸与、援助協力等をいう。
第3条以降には、助成の限度や要件などの条文が続く。つまり条例の趣旨は、恵庭に新たに工場を設置した場合、恵庭町がその事業者に対し補助金の交付・出資・敷地の提供・工業用水の確保・住宅対策などの便宜をはかるというものであった。この結果、これに応じ多数の企業が恵庭に進出する事になった。工場数で見ると、1958年には20だった工場が、1960年には40となり、1961年には49を数えた。1969年には工場数57となり、工場誘致条例制定時から10年間で、恵庭の工場数は約3倍の伸びを示したのである。
この条例は自衛隊の設置以降、純農村の形態が変化し始めた恵庭町が、行政レベルでも産業政策を大きく転換をおこなったことを意味するものであった。高度成長の機運にも乗じ、恵庭が工業化に向けて動き出した第1歩であった。
(2)工業の振興
部隊駐屯による交通インフラの整備と恵庭工業誘致条例によって、1960年代から恵庭の工業化は始まった。その後も、工業化の振興や工業団地の造成は継続して続いてきた。さらに1970年には、北海道で初の高速道路である道央自動車道の千歳〜北広島間が開通し、恵庭における交通・流通のさらなるスピード化が達成される事となった。
就業人口からみても、図表2−3に示されるように、1950年以降、恵庭の第2次産業の就業者数は着実に増加を続けている。工場数でも、1977年には83まで増加している。千歳空港に近いというロケーションの良さも手伝って、以後も工場の立地は進み、1989年にはサッポロビール工場が設置された。
1995年には、恵庭の工場数は121、工業出荷額は約1300億円となっている。工業団地も、これまでに戸磯恵南工業団地、戸磯軽工業団地、恵庭工業団地、島松工業団地、恵庭テクノパーク、恵庭第2テクノパークの7つが造成され、軽工業を中心に各種工場が進出している。他にも、恵庭ハイコンプレックスシティー構想策定や恵み野の中にRBパークを設置するなど、さらなる事業所誘致をおこなう積極政策がとられている。
こうして工業の発展により、恵庭には自衛隊の駐屯に続く第2の変化がおこった。第3次産業が伸長し農業が衰退していくという構造の中で、工業化という第2の波が押し寄せたのである。恵庭の工業化は、軍の要請によっておこなわれた交通路の整備という契機で始まった。また、恵庭が道央という立地にある以上、日本の工業化という当時の流れのなかでは、ある意味必然の結果でもあった。しかし、農業が衰退して構造的に“基地のマチ”という色が圧倒的に強くなっていた恵庭は、これにより工業というもう一つの経済基盤を得ることができたのである。
第4節 札幌圏に組み込まれる恵庭
これまで見てきたように恵庭は1950年代以降、自衛隊基地の駐屯と工業の振興、さらにそれらに伴う飲食店などの第3次産業の伸長により発展した。図表2−2にも示される通り、人口も増加を続けていった。その結果、1970年11月1日から恵庭は市制を施行することになったのである。
第1章で触れたように、この時期、既に江別市は札幌のベッドタウンとなり、石狩市と北広島市でもベッドタウンが造成されていた。そして札幌圏のスプロール化の波が恵庭にも達しつつあったのである。そのような状況の中で、1973年に恵庭市は恵庭市総合開発計画を策定した。これは恵庭市が、札幌圏に組み込まれていくことを明文化し、それを前提にして立案した初めての計画であった。
(1)恵庭市総合開発計画
恵庭市総合開発計画は、恵庭が市制を施行してから初めて立案された開発計画であった。この計画には、それまでの計画とは決定的に異なる点が存在した。それは明確に札幌への意識を打ち出したという点である。これを象徴的に表しているものが計画の冒頭に書かれたフレーズであった。すなわち「道央都市圏を構成する一員としての認識にたって」という前置きである。この前置きは、第1章でも触れた第2期及び第3期恵庭市総合開発計画にも継続して受け継がれていくことになる。さらには、計画の基本方針の中で「恵庭市は、(中略)札幌市の衛星都市化という方向をとりつつ、(後略)」という恵庭市の概況が記述されている。既に札幌圏への組み込みが始まっていた恵庭だが、初めて恵庭市総合開発計画が札幌圏に入ることを前提として作られたのである。
この札幌への意識が計画中に最も具体的に表れているのが、住宅に関する計画であった。それまでの計画では、住宅計画は恵庭市内の工業団地従業員向け、もしくは自衛隊員の住宅が中心であった。それが恵庭市総合開発計画において、初めて札幌を意識した住宅計画が打ち出されたのである。それを端的に表している部分は、土地利用構想の中に述べられている以下の部分である。
第3土地利用構想、ウ国鉄千線以東の開発
国鉄千歳線の電化および将来予想される近代的な都市間交通の開発整備に対処し、南島松地区などを大規模住宅団地として開発する。
国鉄千歳線や都市間交通という記述から恵庭市外への通勤・通学を意識した住宅団地造成を目指しており、特に札幌のベッドタウンとしての住宅団地開発を志向していることがうかがわれる。また南島松地区は、現在の恵み野の区域である。ここにおいて、恵み野開発に通じる動きが初めて行政の計画として打ち出されたのである。
(2)恵み野開発への予兆
先述したように、恵み野開発に通じる動きが初めて計画に表れたのは、1973年1月に恵庭市総合開発計画が議決・策定された時であった。言ってみれば、恵庭市総合開発計画が恵み野開発構想の母体とも言える存在となったのである。
もちろん、この計画が策定される前にも、当然ながら住宅団地造成に向けての動きはおこなわれていた。その背景としては、これまで第1章と第2章で触れてきた状況が挙げられる。1つは、札幌の膨張とそれに伴う札幌圏の拡大である。江別、北広島、石狩と広がってきた札幌圏の拡大の圧力が恵庭の住宅団地、すなわちベッドタウン造成をうながす要因として数えられる。もう1つは、恵庭市内の要因である。自衛隊の駐屯、工業団地の造成、商業の発展などにより、恵庭の農業は近郊農業への転換が求められるなど苦境に立たされていた。現在の恵み野地区も当時は農業地域ではあったが、休耕地が目立ち農業への意欲に変化が見られ始めていたのである。そこで住宅団地への用地転売の動きが、住民側から出てきていたのである。
これら動きのなかで、当時、造成場所を検討していた第3道営住宅団地の開発計画に関連して、その候補地の1つとして、南島松地区が挙げられた。1971年には、地区住民から道庁に対して、この第3道営住宅団地を南島松に誘致するよう陳情がなされた。さらに翌年には、南島松開発期成会が結成された。結局、第3道営住宅団地は最終的に北広島への造成が決定されたが、これによって住民側の開発への要望が具体化し、活動に向けての基盤が作られていったのである。
こうした状況をうけて、恵庭市総合開発計画が制定され、大規模住宅団地構想が明記されたのである。これ以後、行政側も恵み野開発に対し本格的に取り組む事となり、様々な動きが起こってくる。第3章では、この恵み野開発のスタート前の動きから分譲完了までを追っていく。