第3章 恵み野開発

第1節 恵み野開発前夜
第2節 第3セクター恵庭新都市開発公社
第3節 恵み野駅と大型量販店の誘致
第4節 恵み野の分譲

 第1章では札幌圏の拡大、そして第2章では恵庭市の沿革について見てきた。そのなかで、1970年代頃に札幌圏の拡大の波が恵庭市にも及び始め、恵庭市も総合開発計画において初めて札幌を意識した住宅造成構想を打ち出したことがわかってきた。そして、その構想こそが現在の恵み野を造成する計画のスタートであった。第3章では、この恵み野開発について、そのスタートから造成・分譲の完了までの動きを追っていく。

 

第1節 恵み野開発前夜

 第2章のおわりで前述したように、1970年代から現在で言う恵み野地区の住民を中心に住宅団地の造成の気運が高まっていた。そのあらわれとして、道営住宅団地の恵み野地区造成を目指して、1971年に地区住民から宅地開発陳情が出され、1972年には「南島松開発期成会」が発足した。ここにおいて恵み野開発の気運が本格的に高まってきたと言える。

 

(1)動き出した恵み野開発

 住民が誘致活動をおこなった第3道営住宅団地は、最終的に北広島に造成が決定した。しかし、恵み野地区の住宅造成の気運がさめる事は無く、1973年策定された恵庭市総合開発計画にも住宅開発構想が盛り込まれた。これ以後、恵庭市を中心に恵み野開発が動き出していったのである。
 しかし、その矢先、民間不動産業者による恵み野地区の土地売買が展開された。民間不動産業者の動きは素早く、恵庭市総合開発計画が議決されると同時に土地の買い付けを行い始めたのである。この土地売買問題は恵み野開発の初期段階を通じて最大のネックであった。個々の地権者と民間業者の間で土地売買がおこなわれると、地権が複雑化し計画的都市づくりが困難となる。さらに、いたずらに土地の転売がおこなわれれば地価の高騰を招き、販売時に分譲価格も高く設定せざるをえなくなる。そうなれば住宅団地として競争力を失い、最悪の場合には住宅団地造成の断念すら起こり得るのである。そこで恵庭市は、南島松開発期成会に対して住宅団地の開発着手に至るまで具体的な組織に再編成し、幅広く地区住民が結束し対応にあたるよう要請した。また土地買収をおこなっていた民間企業側には、土地売買の構想と計画を提示するように指示したのである。
 その上で、
1973年に恵庭市議会に設置された「南島松開発特別委員会」において、恵み野開発の名称・区域・開発方法・開発規模などが検討された。恵庭市も官民による協調を基本とした「南島松の開発に関する方針」を策定し、市も積極的に開発に関わる意向を示した。同年12月には南島松開発特別委員会は、市の総合開発計画に基づく事業をすることや全て期成会を通じた土地売買の交渉をおこなうことなどの条件を付し、クラレ不動産鰍ニ西澤商事梶i現・三陽梶jの2社を開発業者として選定。直ちに同月29日には、停止条件付きで土地の売買契約が結ばれた。
 一方、期成会内部では交渉価格を一本化し企業と話し合う事が提案された。一部の農業者からは、「全域一律価格で交渉することは必ずしも公平ではない」といった意見も出たが、同案は多数の支持を得て、以後交渉の基本方針となっていった。
 こうして土地売買問題が一応の落ち着きを見せた段階で、恵庭市は土地売買の進展に合わせて市街化区域への編入問題、農地の転用問題について対処していったのと同時に開発方針や開発構想の詰めの作業をおこなっていった。こうして恵み野開発は、行政の積極的な関わりの中で動き出していったのである。

 

(2)恵庭新都市開発公社の誕生

 1973年、恵庭市総合開発計画策定を契機として、恵み野開発が動き始めた。翌1974年には「恵庭市衛星都市化構想」によって、より住宅面に絞った詳細な開発構想が立てられた。さらに1975年の「恵庭市住宅団地基本計画」が立てられ、恵み野開発計画は具体化していった。
 
1977年には、北海道により「道都圏整備基本計画」が策定された。この計画は札幌市周辺自治体を札幌市の衛星都市として機能分担化を図るものであった。同計画は、ニュータウン恵み野開発にとって、その意義を増大させるものであり人口配分の裏付けをなすものであった。また同年「恵庭市住宅団地基本計画」が策定され、開発面積・計画人口など恵み野開発の原形が確立された。
 これらの計画が策定されていく中で、恵み野開発へ向けて実現の足がかりとして、
1974年「南島松住宅団地開発連絡協議会」が設置された。この協議会は、恵庭市、?恵庭市振興公社、そして選定開発業者のクラレ不動産鰍ニ西澤商事鰍ノよって構成されていた。協議会では、具体的な開発の方法論について検討が進められた。この結果として出てきたのが、当時ほとんど例の無かった官民共同事業としての「第3セクター方式」による事業の推進であった。
 この第3セクター方式が提案されたのには、次のような理由があった。

@1973年のオイルショック以後、経済環境が極めて厳しく、開発の出資金分担をおこなう事が出来る。
A北海道内において、民間企業のみで大規模開発事業を完遂した実績がないこと。
B当時、北海道が民間の乱開発防止のために、今後の開発は公的資本の入った公共性を重視した大規模なものでなければ認めないという方針をとりつつあった。

 こうして、恵み野開発には第3セクター方式が採用されることが決まった。そして開発主体となる第3セクター発足にあたり、新たに椛蝸ム組と鹿島建設鰍フ参加が決まり、1975327日、恵庭市及び恵庭市振興公社と民間4社で「褐b庭新都市開発公社」が正式に設立された。公社の出資金比率は、官庁が51%、民間49%であった。代表取締役社長には、元参議院議員で北海道開発庁政務次官などを歴任した渡邊一太郎氏が就任し、中央とのパイプが確保された。
 これ以後、ニュータウン恵み野は恵庭新都市開発公社が事業主体となって、開発がおこなわれていく事になる。

 

2節 第3セクター恵庭新都市開発公社

 恵み野開発は、当時はまだ事例が少なかった第3セクター方式をとる恵庭新都市開発公社の手でおこなわれる事になった。しかし公社の設立は完了したものの、構成員はそれぞれに業態や性質を異にするため、恵み野の開発の方法論など調整しなければならない課題が山積していた。第2節では、恵み野開発が実際の造成・分譲に至るまでの動きについて追っていく。

(1)恵み野開発方針の決定

 それまでに類を見ない第3セクターによる開発が進められた恵み野であったが、前例が少ない事もあって、構成員それぞれの立場が違うこともあって、構成員間の調整には手間取ることもあった。特に恵み野の開発論についての調整は、この開発方針がこれからの事業自体を左右することになることもあって難航を極めた。その開発の方法のなかで議論の中心になったのは、住宅団地の付加価値についてであった。つまり、分譲価格を安くあげることに重点を置くか、都市機能や住環境の充実などの付加価値を高めることに重点をおくか、という違いである。
 前者の主な開発法としては、これまでに他の大規模住宅団地で用いられた手法である「区画整理法」が候補に挙げられた。区画整理法とは、住宅団地開発において必要最低限の住宅建設の条件を整える方法であり、区画の整備を主におこなうもので開発コストを押さえられるというメリットがある手法であった。だが、結果的には区画整理法は採用されなかった。恵庭市の位置付けによる「恵み野」は、恵庭市総合開発計画による街づくりの一環であり“住む人の立場に立った街づくり”が方針とされていたためである。
 しかし、参加企業の一部には、交通機関の未整備や土地売買の進行状況を理由に、こうした街づくりの見通しに疑問を持ち、またコストアップの懸念もあるとして、付加価値を高めた住宅団地建設というよりは、必要最低限の条件整備にとどめた区画整理法を採用すべきだとさらに主張をおこなうものも出た。だが結論は変わらず、“単なる住宅地の供給にとどまらない良質な住環境の整備”をおこなうことが開発方針として固まった。そして
19781225日に都市計画法に基づく開発行為の許可を取得したのである。
 この間、
1978年6月には樺|中土木が新たに株主として公社に参加する一方、開発手法についての基本認識の違いを理由として、1979年9月に鹿島建設鰍ェ事業から撤退した。これにより、公社の民間企業構成は最終的にクラレ不動産梶A西澤商事梶A椛蝸ム組、樺|中土木の4社となった。こうして、この時に成立した組織が、最後まで開発を遂行・運営する組織となった。

 

(2)開発資金の調達

 「恵み野」開発には、基本構想から事業遂行に至るまでの過程には、いろいろと乗り越えなければならない問題があったが、その中でも最も大きな問題は資金調達であった。恵み野開発の基本方針は“低廉な宅地の供給と質の高い街づくり”であって、この実現のためには計画段階から“総事業費約350億円”という額が見こまれていた。これは極めて厳しい事業見通しであって、そのため開発資金の調達は困難な状況であった。
 さらに事業が長期にわたることから資金調達の方法によっては、金利負担の大小が直接的に事業損益を左右し、事業運営に大きな影響を及ぼす事になる。結果、恵み野開発自体が頓挫することもありえるので、資金調達の方法には慎重を期す必要があった。しかし、地権者からは資金調達に対し具体的な進展がないことから「先立つものがないと生活に困る」との不満の声が出てくるなど、資金調達は早急に解決しなければならない問題でもあったのである。そして、その解決の見通しを持たせたのが、以下の3つの資金であった。

@匿名組合の発足と出資金の拠出
 公社の民間株主の提案により、総事業費の約
10%相当額を民間株主4社が出資金として拠出することになった。そして、その方法として「恵庭新都市開発整備事業匿名組合」(匿名組合方式)を1979年6月に発足させた。この方式の採用によって公社を事業主、民間4社を組合員として“事業運営を公社が行い、出資金の損益リスクを匿名組合員が負う”ということになった。この出資金の拠出によって、公社は金利負担の無い多額の資金を調達することができ、外部資金導入までの基礎を固めることが出来たのである。

A住宅団地関連施設整備促進事業国庫補助金の交付
 一方、匿名組合の発足に先立って、公社の資金調達問題を最初に発足するきっかけをつくったのが、
1979年5月、建設省の「住宅団地関連公共促進事業の補助金交付」の決定であった。この補助金は、一定条件を満たした新市街地の道路、上下水道、橋などの整備に対する国庫補助金であり、恵み野に対しての総交付額は、約26億円に達した。補助金交付の決定は、上記の匿名組合発足を促すなど、行き詰まっていた開発事業の進行に大きな役割を果たした。

B日本開発銀行の融資
 民間金融機関からの資金調達は、一部の金融機関(札幌信用金庫、安田・住友・三菱の3信託銀行)を除いては、難航を極めた。が、
198012月に公的資金として日本開発銀行から「開発事業資金」の融資が決定したことで状況が変わった。この開発事業資金は、それまで3大都市圏に限って融資されていたものだが、全国的な都市圏への人口集中に伴って、この時期に「人口25万人以上の都市の通勤圏」へと大幅に融資適用枠が広げられたばかりであった。そこに公社や恵庭市、そして民間株主の熱心な陳情と働きかけによって、その最初のモデルとして恵み野が選ばれたのである。

 こうして政府系金融機関の融資が得られた事で、単にその金額の多寡だけではなく、恵み野プロジェクトに対する信頼感・期待感を生み出し、民間金融機関の融資を増加させることに成功した。
 上記3つの資金によって、開発に対し最大の難関とされた資金調達は何とか目途がたった。しかし資金繰りは後々まで苦しく、最高時には
100億円を超す借入金を抱え、その金利に追われながら開発事業を続けたのである。

 

(3)ネーミングの決定

 恵庭ニュータウンの名称が「恵み野」と正式に決まったのは、既に第1期分譲中の1980年4月であった。新名称は、販売戦略上新しい街づくりのイメージを表現した宣伝効果のある愛称が求められ、これを新町名全体に用いる方向で検討された。そして、いくつかのネーミング案の中から、最終的に「恵み野」を選定した。「恵み野」を選定した理由として挙げられたのは、次のようなものであった。

  1. 恵庭市の「恵」を採用し、新しい街だが母体が恵庭市であることを示す。
  2. 開発地域の広々と雄大な地形から「野」を採用。
  3. 団地づくりのメインテーマである緑豊かな、ゆとりある住環境を端的に表現している。
  4. “めぐみの”という語韻は、繊細であるが響きがよく、品性の良さがある。
  5. 現況の開発区域および周辺は田園風景であるため「恵み野」の“野”は平凡であるが、将来都市化が進んだ段階においては、市街地の中の自然に恵まれた人間性のある住宅地として親しまれる。

 「恵み野」採用に至るまでは、従来から恵庭市域で使われていた町名が「〜町」であることとの整合性などから市議会等で賛否が分かれたが、4ヵ月あまりの市側との協議の結果、愛称だけでなく、開発区域全体を将来にわたっても「恵み野」という町名に一本化することになった。

 

(4)開発計画の概要

 前節で述べた通り、恵庭市によって恵み野開発については、様々な計画・構想が立てられてきた。開発が恵庭新都市開発公社の手に移ってからは、公社により実施計画が立案され、1978年「恵庭住宅団地実施計画」が立てられた。さらに前述したように1980年に、正式に恵み野という名称が決まり、恵み野駅新設が決定し都市計画が変更された。このようにして最終的にまとめられた恵み野開発のマスタープランの概要は次の通りである。

@事業名称…恵庭住宅団地開発整備事業
A団地名称…恵庭ニュータウン「恵み野」
B事業者…恵庭新都市開発公社。
     構成員:恵庭市、
()恵庭振興公社、クラレ不動産梶A西澤商事梶A椛蝸ム組、樺|中土木
C開発面積…254.68ha(74.31万坪)
D事業年次…造成年次:1979年〜1989
      分譲年次:
1980年〜1990
E計画人口…15000人。4540戸。可住地あたりの人口密度は、約80人/ha
F住宅供給…戸建住宅を主体とする。集合住宅は中・低層公営住宅とする。
G土地利用計画…教育文化施設を配置した2住区構成(1住区7500人)とする。
H公園緑地計画…ニュータウンを縦貫する帯状緑地公園と小川を中心に配置する。
I交通計画…札幌とは北海道縦貫自動車道、国道36号、道道江別恵庭線で接続。
      札幌方面への通勤・通学の手段は、国鉄千歳線
(30)を利用する。

 このように恵み野開発計画がその姿を明らかにしていく一方で、恵庭市では市街化区域などの変更手続きを行った。それをうけて公社が北海道をはじめ、建設省、石狩支庁などの関係諸機関に土地利用や水道などのライフライン関係を中心に様々な許認可を申請した。また計画区域内に残っていた未買収用地の買収などもすすめ、ここにおいて、ようやく恵み野開発は、後は実行を待つのみというところまでこぎつけたのである。

 

 

第3節 恵み野駅と大型量販店の誘致

 恵庭新都市開発公社によって用地買収や資金調達がおこなわれ、恵み野開発の下準備は整った。そして開発事業が計画されて以来、ほぼ7年を経過した1979年8月22日、恵み野開発の起工式がおこなわれた。しかし、恵み野開発にはまだ大きな課題が残っていた。街づくりや販売戦略上も重要な新駅の設置と大型量販店の誘致である。第3節では、恵み野駅の新設と大型量販店イトーヨーカドーの誘致に至るまでの経過をたどる。

 

(1)恵み野駅の新設

 これまで見てきたように、恵み野は札幌のベッドタウンとしての性格を持っている。よって札幌への交通手段の確保は、販売戦略上も欠かせないものであった。そして、その手段として計画当初から考えられていたのが国鉄新駅の新設であった。なにしろ恵み野は国鉄千歳線に接しており、その位置関係を生かして島松駅と恵庭駅との中間に新駅を設置することが、関係者の誰しもが問題解決の最も端的な手段と考えていた。そこで公社設立当初より、恵み野関係者は国鉄に対し新駅の設置を要望し、実現の可能性を探ってきた。しかし島松駅と恵庭駅間が4.7kmと距離が短く、その中間に新駅を設置する事は困難であるとの見解が根強くあった。さらには、恵庭市民の中に新駅の実現は既設駅の廃止につながるのではという懸念もあって、地元の意見も一致を見なかった。新駅設置には官民一体の運動の盛り上がりが必要であるが、それには多少物足りない状況であったのである。
 そこで、恵庭市長が自らトップになり「国鉄恵庭島松中間駅設置促進期成会」が
1979年8月に発足し運動を続けた。さらに恵庭市議会も要請活動をおこなうことになり、全市を挙げた活動が展開されることになった。結果、翌1980年5月には新駅設置が決定したのである。またこれに伴って、恵み野の都市計画が変更される事になった。既に造成工事は始まっていたが、急遽、新駅を中心とした都市計画に練り直された。そして、同年の7月には工事が着工され、1982年に3月1日、入居戸数わずか360戸足らずの段階で、恵み野駅が誕生したのである。
 これらの恵庭全市を挙げた運動と新駅のスピード設置は、新駅の存在が恵み野開発へ非常に大きな影響を与えるものと考えられていたことを物語っている。そして恵み野駅の誕生により、恵み野は、札幌まで約
30分、千歳空港まで約15分という距離圏となり、増大する札幌圏の人口を受け入れる大きな足がかりが出来た。同時に、以後の恵み野の販売促進の大きなインパクトとなって、恵み野発展の基礎を築いたのである。

 

(2)イトーヨーカドーの誘致

 恵み野の商業施設の中心には、当初は団地のセンター地区に、地域センター的役割を持たせた複合的な施設を作ることが計画されていた。しかし、恵み野駅の設置で駅前地区の都市計画が大幅に変更される事になり、商業利便施設は駅前地区を中心に構成される事になった。これにより商業施設の核としての大型量販店の誘致がクローズアップされる事となった。大型量販店の存在は、団地内で完結した生活を可能とする都市機能を持たせるばかりではなく、恵み野以外の人々をも引き付ける役割を果たすものとして、また今後の恵み野の販売戦略からも極めて重要であった。
 そこで、かねてから国道
36号線に近い既存市街地の柏木地区への出店計画を持っており、1980年5月に既に出店の届出を出していたイトーヨーカドーに注目が集まった。イトーヨーカドーとの交渉は初め公社が単独でおこない、出店場所の変更を依頼したが、イトーヨーカドー側と構想が合致せず、不調に終わった。
 そこで、やむなく他の大型量販店誘致の構想も持ちあがったが、恵庭市の全面協力を得て、再びイトーヨーカドーに要請をおこなった。それは恵庭市としても、大型量販店が既存市街地に進出した場合における地元既存商店街への著しい影響を予想し、それを回避したかったという意向があったためである。これはイトーヨーカドーによって恵庭市内外から恵み野への買い物客の集客を図る公社とは、必ずしも思惑が一致するものではなかったが、両者による再三の説得・要請が実り
198010月に至り、ついにイトーヨーカドーの恵み野駅前出店が決定した。
 そして
19823月、恵み野商業施設の柱たる大型量販店イトーヨーカドーは恵み野駅の開業と時を同じくして開店したのである。

 

第4節 恵み野の分譲

 恵み野の造成は、1979年に起工されたが、その第1期造成工事は実質工期6ヵ月という厳しい条件であった。しかも、その造成中には、第1回目の宅地販売を行ったのである。いわゆる“青田売り”であり、完成サンプルも無い状態での販売であった。これは公社発足以来、既に4年を経過しており、資金事情にも困難を極めている状況下において、一刻も早く資金回収をはかる必要があったためのギリギリの措置であった。第4節では、恵み野の分譲・販売の足跡をたどっていく。

 

(1)分譲の基本計画

 恵み野の分譲を進めていくにあたって、造成工事が始まった197910月に札幌圏の住宅不動産市場のマーケットリサーチを行った。そのリサーチ結果の概要は次のようなものであった。当時、住宅需要は陰りが見え始めていたが、札幌市場は道内外からの転入が毎年9万人(3万世帯)を超えており、札幌圏に関しては安定市場といえた。また恵庭市に関しても、1975年頃から既に札幌の「広域生活1次圏」(通勤・通学の依存が10%以上)となっており、年々札幌への依存の度合いが高まっていることと、恵み野が「道都圏基本計画」により札幌生活圏と位置付けられていることで安定した需要が見込める。ただ、既にいくつかの大型団地開発の計画が進行しており、いずれ競合という局面を迎えることが予想される。
 そして、上記のようなリサーチ結果を基にして、公社は次のような恵み野の販売分譲計画が立案した。

  1. 市場調査により、販売市場の中心は必然的に巨大マーケットの札幌である。札幌から需要の5060%を引き込むことを見込む。以下、恵庭市及び近隣市町村から2030%、その他道内外から20%との需要を想定した。販売対象は、特に3040歳代の団塊世代を中心とした人々を想定するが、販売価格の低廉さから若年層の、住環境の整備から高年齢層の取りこみも目指す。

 このような分譲計画のもと、1980年〜1989年の10年間で恵み野の分譲はおこなわれていった。しかし、競合や経済情勢の変化などから、その途中には事業計画の再検討や販売計画の見なおし、または販売戦略の転換など、営業戦略の変更が随時おこなわれていった。

 

(2)宅地分譲・販売の経過

 先に少し触れたが、恵み野の第1期1次分譲は1980年5月に宅地未完成のまま、200区画が売り出された。しかし青田売りであったにもかかわらず、販売当日の受け付け会場であった恵庭市民会館は徹夜組も出るなど大混乱となり、区画は即日完売となった。第1期の2次分譲では、この混乱がさらなる反響を呼び、初年度の販売は順調に滑り出した。2年目となる第2期分譲でも、第1次の反響や恵み野駅とイトーヨーカドーの着工という出来事もあって、販売上大きなインパクトを与えた事もあって売れ行きは順調であった。
 しかし、
1982年、第3期分譲期以降には急に売れ行きがあやしくなり始めた。元々、北海道の住宅不動産市場は、「2年良ければ、4年低迷する」という言葉があるほど状況が変わりやすい。北海道経済の低迷で住宅市場も冷え込んだ状態だったのである。さらに、札幌市内をはじめ、札幌近郊においても大型宅地開発が続々とスタートし、それぞれの価格・営業力・企画力などが比較される競合という新局面を迎え、住宅市場はまさに売り手市場から買い手市場へと移っていったのである。そうした中、恵み野は1983年7月、北海道で初の「ほっかいどう住宅祭」を催した。住宅メーカー18社による60棟のモデルハウスを1つの街並みとして展示した。一方、開催期間中に恵み野野球場や恵み野野外音楽堂などを使った各種のスポーツ、芸術、芸能イベントも行い、16日間で53000人の観客を集めた。この総経費約1億2000万円をかけた大イベントにより、一時、売れ行きは盛り返したものの大勢としては、厳しい状況が続いた。
 恵み野分譲の苦戦が続くなか、
1984年には造成が完了した在庫数がついに1000区画の大台に乗った。また住宅メーカーも一向に持ち越し物件の在庫整理が進まず、数社が恵み野から事実上撤退した。さらに1985年と1986年は最も低迷した時期であった。長引く不況から「ディベロッパー冬の時代」と言われ、札幌圏の住宅状況は低迷を続けた。なかには、換金処分のために大幅な値引き販売がおこなわれた住宅団地もあり、その影響もあって恵み野の分譲数は落ち込んでいった。このように分譲中期は、苦しい状況が続いたのである。そこで、公社は販売不振打開と街並みづくりを兼ねて起死回生を狙った総合住宅展示場「恵み野モデルパーク」を誕生させた。これは、モデルハウスを1つの通りに集めて街並みを形成するというものであった。しかも1年ごとにその場所を移動させ、1年経ったモデルハウス群は、建売住宅として売りに出すというものであった。恵み野モデルパークは話題を呼び、他の注文住宅用地の活性化にもつながった。
 その後の
1987年から1989年の分譲の後半3年間は、好調な売れ行きが続いた。低金利政策や景気回復により需要が拡大したことが追い風となったのである。ただ札幌圏の住宅過剰供給の状況は変わらず、その住宅団地によって売れ行きに格差が見られるようになった。そのなかで恵み野が好調を維持したのは、前述の恵み野モデルパークの話題性が1つの理由である。もう1つ大きい理由は、恵み野の街づくりが完成に近づいてきたことであった。モデルパークによる質の高い街並みと住環境を重視する恵み野の街づくりコンセプトが評価され、一団地の販売記録としては、道内はもちろん全国一だとまで言われるほど、宅地販売数は過去最高を記録した。
 こうした好況の中、公社は街並みづくりをさらに重要視し、宅地販売の大半をメーカー委託から注文住宅に切り替えた。
1989年からは、1日1棟のペースで住宅着工が進み、ますます恵み野の街並みが完成に近づいた。それらが口コミ効果もあって、さらに人を呼ぶという好循環となって、在庫整理どころか分譲計画完了年次の1990年には区画は完売された。そして、住宅メーカーの建て売り住宅についても翌年には完売したのである。
 こうして、年次ごとでは必ずしも計画通りではなかったものの、最終的には
図表3−1に示されるように、ほぼ予定通りに、見方によってはそれ以上とも言えるような順調さで恵み野の住宅用地の分譲・販売事業は完了をみたのである。

 

(3)商業用地の販売

 恵み野の街並み形成を出来るだけ早く整えるため、住宅付き宅地分譲の推進と住民の利便施設の整備を早期に図る計画で、1980年、商業用地の分譲がスタートした。しかし、図表3−2からも読み取れるように、前述した宅地販売以上に、住民利便施設の核である商業用地は苦戦の連続であった。駅前商業地区でさえ、1982年のイトーヨーカドーの開店以来、何の施設も無く閑散とした状況であった。
 計画では分譲の初期段階で、商業用地はかなりの部分の分譲を終えるはずであった。だが現実は、分譲の前半には全く分譲が進まなかったのである。というのも、当時の経営者には恵み野出店に対して「人口が少ない」、「採算が取れない」、「時期尚早」といった意見が大半を占めていたのである。つまり、人口が少ない初期分譲段階では、恵み野での営業は採算ラインに達しないとシビアに判断されたのである。
 とはいえ、これらの理由の大半は分譲が進めば、解決が予想される問題でもあった。実際、人口も増加してきた分譲の後半には増加傾向に変化している。特に、
1988年に入ってからは、それまでの遅れを一挙に盛り返すほど分譲が進んだ。こうして住宅地の分譲の進行に伴い、恵み野住民の生活を支えていく役割を想定された商業施設の分譲にも、見通しがついたのである。

 

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