第4章 恵み野への評価
第1節 恵み野開発計画の総括

第2節 恵み野開発事業への評価
第3節 恵み野まちづくりの現状と課題

  第3章で述べたように、公社による恵み野の分譲販売は1989年度に完了した。1990年5月16日には恵み野完成式典がおこなわれ、恵み野開発事業をおこなうという公社の役割は終了した。第4章では、この恵み野開発事業のまとめをおこなうとともに、恵み野開発事業への評価を試みる。そして、恵み野分譲の完了以後の足跡をたどり、現在の恵み野を考察する。

 

第1節 恵み野開発計画の総括

 恵み野開発は、1973年の恵庭市総合計画で開発構想が持ち上がって以降、いくつかの変更を経て198012月、開発公社の手によって最終的な開発計画が確定した。第1節では、恵み野開発事業への評価に先立ち、開発計画の変遷を追っていき、また開発計画のコンセプトとその実現方法を確認し検証する。

(1)恵み野開発計画の変遷

 恵み野開発計画は、図表4−1に示したように、最終確定までに何度かの変更を経ている。その変更の流れの大筋としては、初めはかなり大規模に想定された計画面積や計画人口が、現実と照らし合わされて徐々に絞り込まれていくという方向であった。そして恵み野開発計画が、ほぼ現在の面積と人口規模に固まったのは1977年の恵庭住宅団地基本計画によってであった。ただし、この規模は第1期計画と位置付けられており、第2期以降でさらなる広範囲への造成も視野に入れられたものであった。
 ところで、この恵庭住宅団地基本計画には、同じく
1977年に北海道によって策定された道都圏整備基本計画に拠ったところが大きい。道都圏整備基本計画は、札幌の衛星都市群を整備し具体的な人口配分を計画したものであった。よって道都圏整備基本計画は、恵み野への人口配分の裏付けをなしたと考えられ、これに沿って恵み野計画も人口・面積が決定されたのである。そして、道都圏整備基本計画は、恵み野開発の以後の計画に上位計画として大きな影響を与えていくことになる。
 また恵庭住宅団地基本計画において確定したのは面積や人口だけではなかった。街づくりのコンセプトについても同様に決定されたのである。その内容は後で詳しく述べるが、一言でいうと「単なるベッドタウンにとどまらない住環境の整備」にあった。この方針については、第3章で前述したように公社設立時に、造成コスト問題との絡みで公社内で意見が分かれるところとなったが、結局はこのコンセプトが事業の最後まで貫かれることになったのである。
 しかし恵庭住宅団地基本計画で恵み野の概要が決定したなかで、大幅に変更された事項が1つだけ存在する。それは都市計画であった。同計画では、恵み野中心部にはタウンセンターを配置することが決まっていた。そして実際、第1期造成工事もその計画でスタートしたのである。しかし第3章で触れたように、
1980年に恵み野駅の新設が決定し、これに伴って都市計画も駅を中心としたものに書きかえられた。ここにおいて、ようやく恵み野開発のマスタープランが完全に確定したのである。

 

(2)恵み野開発のコンセプト

 恵み野の開発は、「今までの大規模住宅団地とは異なる広域的な複合都市機能を有する本格的な街づくり」を掲げてスタートをした。それは恵庭市が開発に参加していたこともあって、単なる宅地の販売・造成にとどまらず、構想段階から将来の街づくりについても考慮することが前提となっていたためである。そして、その街づくりのコンセプトとして挙げられたのが、次の2つであった。

@「人間らしい生活とは何か」を追求したライフステージの提供。
A「21世紀にもなっても新しさを失わない街づくり」

 つまり、宅地造成のみをおこなってきた従来のベッドタウンと異なり、高水準の都市施設と豊かな自然環境に裏打ちされた付加価値の高い住宅団地づくりを目指すというものであった。そして、このコンセプトを支え実現のために具体化したものが、生活軸と環境軸という考え方であり、都市計画上ではそれぞれ生活軸はライフベルト、環境軸はパークベルトと呼ばれた。これはライフベルトとパークベルトを住宅団地の骨格として配置し、この2大軸を中心として上記コンセプトを恵み野に具現化しようとしたものであった。
 ライフベルトは、恵み野の“玄関口”JR恵み野駅を一端とし、商業・医療・公共・教育などといった住民の日常生活に欠かせない各種施設をベルト状に配置したものである。このライフベルトは複合的都市機能を集約する役割のほか、街づくりの先駆的な役割を負うものでもあった。ライフベルトに配置された各施設の概要は以下の通りである。

@商業・医療施設
 商業・医療施設の中心的役割となったのが、駅前地区のイトーヨーカドーと恵み野病院である。特にイトーヨーカドーという大型量販店は住民の生活を支える上でも、広域的な集客のための吸引力としても重要な施設であった。駅前地区には、他にショッピングモールや各種病院、銀行、またスポーツクラブやレストラン、書店などが配置されている。
 駅前から団地中央部へのびるベルト帯にも、病院、理美容院、スポーツショップ、コンビニエンスストアなどが設置された。そして駅から最遠隔地にあるライフベルトのもう一端には、商店街を設けるようにした。さらにライフベルトから離れた地区でも、約300mの範囲内で日用品が購入できるように分散店舗地区を設定している。

A教育・公共施設
 恵み野の中心部であり、ライフベルトの中央部でもあるタウンセンター地区を中心に教育・公共施設が配置されている。教育機関は、北海道ハイテクノロジー専門学校、早稲田情報科学専門学校、日本福祉リハビリテーション学院という3つの専門学校がタウンセンター地区に集中している。さらに幼稚園から大学までを備えた住宅団地を目指して、ライフベルトに2つの幼稚園、小学校2校、中学校2校がおかれ、ライフベルトの一端には近畿大学が用地を取得しセミナーハウスを置いている。
 公共施設は、行政の窓口である恵み野出張所と警察派出所、2つの郵便局が置かれているのを始め、5つの地区会館が設置された。さらに教育公共施設のシンボルとして、恵庭市立図書館や野外音楽堂、郷土資料館などが開設されている。

BRBパーク
 RBP(リサーチ・ビジネス・パーク)は、先端技術の研究開発の推進と地域企業と人材を育成する目的で恵み野に設置されたものであった。恵み野センター地区に1989年、恵庭RBPセンタービルが完成した。以降、隣接のスーパーコンピュータを備えた情報センタービルや周囲の各専門学校と連携を取りつつ、地元企業を中心に植物学や海洋生物の研究が続けられている。一方、地域住民に対してもピアノコンサートや絵画展などの催し、コンピュータ学習などのセミナーが開かれ、地域の教育・文化活動にも貢献している。

 恵み野を形成するもう1つの軸、パークベルトは、豊かな自然環境の実現を目指すものであり、そこには公園・緑地と各種スポーツ施設が配置された。その代表が、恵み野を横断し、幅3050m、延長3.5kmに及ぶ帯状公園とその中を流れる小川であり、恵み野のシンボルとなっている。パークベルトの概要は、以下の通りである。

@公園・緑地
 パークベルトの中心の中央公園は約11万uの面積であり、その中には約5000uの池とその周囲には日本庭園が造成された。そして、パークベルト全体はサイクリングロードと遊歩道で結ばれていて、自由に行き来ができるように設計されている。
 それ以外にも、子どもたちが日常遊ぶ公園として、団地内のどこから歩いても3分以内で利用できるように7つの児童公園を配置した。

Aスポーツ施設
 スポーツ施設には、収容人員1万人で公式試合も可能な野球場を始め、オールウェザーコートのテニスコートが4面造成された。さらにフィールドアスレチック施設を備えて冬にはスキーが可能な冒険広場、サッカーや野球、ゲートボールが可能な広いコミュニティー広場などが設置されている。

 こうして恵み野のコンセプト実現のために、ライフベルトとパークベルトが計画され造成された。そのために恵み野開発のコストは上昇し、土地利用においても住宅用地を全体の42%に抑えざるを得なくなり資金面での負担は大きくなった。しかし、確かに従来の宅地造成のみをおこなうベッドタウンとは違う住環境が、少なくとも施設などのハード面では、恵み野において実現されたのである。

 

 

第2節 恵み野開発事業への評価

 恵み野開発事業は、最終的に約167000万円の純利益をあげた。恵庭新都市開発公社の設立以後に、各地で多数設立された第3セクターの経営不振や破綻が目立つなか、恵庭新都市開発公社のあげた16億円という益金を見ると、恵み野開発事業はビジネスとしては成功したと言える。しかし、それ以外の点でも恵み野開発事業は成功したと言えるのだろうか。ここでは公社の開発事業の方針や、ライフベルトとパークベルトの現状を検証し、恵み野開発への評価を試みる。 

(1)公社の恵み野開発方針への評価

 これまで何度か触れてきたように、恵み野の開発方針は、「単なる宅地造成にとどまらない付加価値の高い住宅団地の建設」であった。その方針によって、恵み野は従来のベッドタウンよりも良質な住環境のための施設や用地を増加させた一方で、開発のコストの上昇を招き住宅用地を少なくして、資金回収の見通しを苦しくすることにもなった。以下で、あえて公社がコストに目をつぶるこの方針を選択したことの背景について考え、この評価を試みる。
 この方針の是非をめぐっては、恵庭新都市開発公社の設立時にも論議を呼び、それが鹿島建設鰍フ公社離脱の引き金ともなった。しかし、この開発方針について民間企業と恵庭市とで意見が違うことは当然とも言えた。というのも、民間企業が恵み野開発事業に参加した理由は、利潤の追求である。よって、造成のコスト増加と住宅用地の少なさによる売り上げ高の減少は、利益の減少に直結し民間企業としては受け入れがたい方針であったのである。あえて極論を言えば、“開発造成事業が完了した段階で、出来るだけ多くの儲けが出れば良い”という立場をとるのが民間企業であった。
 一方、恵庭市の立場は民間企業のそれとは一線を隔する。恵庭市は、販売が完了して以後も、もちろん恵み野と関わり続ける。そのため、きちんとした街づくりの方針を立てて、将来の住民の住環境についても、事前に配慮をおこなっておく必要があったのである。開発事業についても、必ずしも利益を出す必要はなかった。将来、住環境の良好さで人口が恵み野に定着すれば、それで恵庭市としては税金の増収が見込めるのである。むしろ造成事業において、きちんと街づくりや環境整備を行なっておくことは、恵庭市にとって将来そこに使われる支出を抑えることにもつながり、歓迎すべきことですらあったのである。
 こうした民間企業と恵庭市との立場の違いがありながら、何故住環境の整備に力点を置くことに開発方針を決定し得たのだろうか。言いかえれば、何故民間企業は、(1社を除いては)収益減少につながる方針に納得したのだろうか。結論を言えば、そうしなければ恵み野開発は事業見通しが立たなかったからだと言える。当時、依然として札幌圏住宅団地市場をめぐる情勢は厳しくなりつつあった。第3章でも触れたように、札幌圏への人口集中傾向は続いていたものの、札幌市内外に住宅団地造成計画が次々と持ち上がり競争の時代へと移行しつつあったのである。そして当時、住宅団地販売の競争力の中心は、立地と価格という2大要素であった。
 言うまでもなく、恵み野の立地は札幌圏住宅団地の中では不利な位置にあった。国道
36号線とJR千歳線という交通手段があるものの、江別や北広島、石狩、さらには札幌市内の住宅団地と比較すれば否応無しに遠距離という評価をされる立地であったのである。また価格においても、札幌の5060%の地価を設定したとしても、例えば北広島団地は道営ということもあって廉価であり、明確な価格の違いを打ち出すことは不可能だった。他にも1973年から造成されていた南幌のニュータウンには、恵み野は価格面で引けをとるのである。このように従来通りのベッドタウン造成では恵み野開発事業は競争力が低く、例えば区画整理法で宅地を造成・販売しても売れ残り、民間企業としては“利益どころか、元もとれない”という結果を生み出しかねなかったのである。
 そこで公社は、それまで競争力の主役にはなっていなかった良好な住環境という要素を打ち出すことにしたのである。当時、東京や大阪の大都市圏などの日本でも最も古い部類のベッドタウン群において、住環境や高齢化などへの問題が出始めていた折でもあって、住環境の整備が十分“ウリ”になる状況にあった。そして民間企業の納得と了解を経て、前節でも述べた開発コンセプト、@「人間らしい生活とは何か」を追求したライフステージの提供と、A「
21世紀にもなっても新しさを失わない街づくり」が打ち出されたのである。
 当時、恵み野と競合した他の住宅団地の分譲・販売の状況を見ると、このような単なるベッドタウンにとどまらない住宅団地をつくるという恵み野の開発コンセプトは、ベッドタウンの住環境にも高いレベルを求め始めた時代のニーズを先取りしたものであったとも言えるのではないだろうか。
 結果としては良好な住環境の整備と、それを前面に押し出して作り上げた恵み野のイメージという広告戦略が、札幌圏の住宅地過当競争の時代において、恵み野を計画通りの販売完了という結果へと導いたと言える。ベッドタウン開発において後発地であり遠隔地であった恵み野がとった開発コンセプトは、その販売においては必要不可欠な要素であり、また街づくりという観点から見ても、住宅団地に住環境を求め始めた当時のニーズに沿っており、開発方針としては十分に評価できるものだったと言える。

 

(2)ライフベルト・パークベルトの計画と現状

 公社の開発コンセプトによって進められた恵み野の街づくりは、分譲が進むとともに“質の高い街づくり”を理由として、1988年に「建設大臣賞」、1989年に「北海道まちづくり100選」、1990年には「経済同友会大賞」を受賞するなど、まずは順調な滑り出しを見せた。では、分譲が完了し開発が公社の手を離れて以後の恵み野の街づくりは、どのような経過をたどっていったのだろうか。ここでは、前節で触れたパークベルトとライフベルトの施設の現状を検証する。
 まず教育・公共施設についてだが、前節に述べた3校の専門学校を中心に、現在でも行政出張所や郵便局などがセンター地区に形成されている。市立図書館も全国でも高い貸し出し水準を誇っており、よく機能していると言える。ただし、近畿大学についてはセミナーハウスの建設以降具体的な進展が見られていない。
 また小学校や中学校は、住民が増えるにつれて開校していった。これは、恵み野は小学校を中心にした2住区構成計画であったためで、住民の増加に対応しつつ恵み野小学校は
1982年開校、恵み野中学校が1989年、恵み野旭小学校が1991年に開校した。しかし、図表4−2に示される通り、最近になって恵み野小学校と恵み野旭小学校の児童数の開きがとみに目立ってきている。また、恵み野全体でも1990年代後半からしだいに恵み野の児童生徒が減少傾向にあり、将来の児童数の減少問題が懸念される。
 次に公園や運動施設についてだが、この利用に明確な統計があるのは、恵み野中央公園内の野球場とテニスコートの2つだけである。それぞれ
1997年度で、野球場が164日・11313人、テニスコートが228日・21150人の利用日数と人員を集めている。規模の問題があるので一概には言えないが、この利用日数と人員は恵庭市の他の野球場やテニスコートの利用状況と比較しても最も多い数字である。またジョギングコースとして帯状公園には朝夕には人が絶えず、公園は日本庭園を中心に春には2000本の桜が咲く名所となり、住民がそれぞれ思い思いに公園を利用している状況にある。
 最後に商業・医療施設だが、医療施設については恵み野病院を中心に各種病院が設立され充実を見せている一方で、商業に関しては厳しい状況が続いている。特に恵み野駅前商店街の状況は厳しく、分譲期に出店した店舗のうち約半数が閉店となっている。そして、その跡地には出前専門の飲食店や学習塾などが出店し、常に入れ替わりが激しい。そのような恵み野商店街の厳しい状況の要因として挙げられるのは、第一には他地域と同様に大型店や郊外店との競合である。そしてベッドタウン特有の要因として、札幌との競合がある。札幌へ通勤人口が多い恵み野では、通勤帰りに札幌で買い物をすませることが多い。また休日も札幌中心部に出かけ、百貨店・専門店で“ショッピング”をする傾向があり、地元商店街になかなか“お金が落ちない”傾向にある。ライフベルト・パークベルトの計画のなかで、現状において最も計画通りに進んでいないのが、商業施設である。
 こうして見ると、公社によってライフベルトとパークベルトとして計画され、そこに設置されてきた諸施設は、概ね現状においても機能していると言える。だが、そのなかで住民の生活を支えるとされた商業施設が計画通りとは言えない状況にある。しかし、恵み野商業施設の全てが不振なわけではなく、1ヵ所で日用品の全てがそろうようなイトーヨーカドーや複合ショッピングセンターの「アクロス恵み野」などには集客力がある。さらに商店街には、閉店した店舗の跡地に住民のニーズに沿って出前専門すし店や学習塾が新たに出店した。これらのことから、当初出店した店舗の不振や撤退は、商業施設計画段階において、公社が将来の恵み野の住民の買い物意識を読み違えたことを一因とすると考えられる。

 

 

第3節 恵み野まちづくりの現状と課題

 前節で述べたように、恵み野商店街は苦戦を続けていた。しかし、苦戦していた恵み野商店街の集客キャンペーンとしておこなわれた花壇の飾り付けが、恵み野に新たな街づくり運動を呼ぶことになった。一方恵み野は、分譲当初から分譲完了より10年が経とうとしている現在まで、図表4−3に示されるように着実な人口増加を見せている。しかしその裏では、将来の高齢化などの問題が持ちあがってきているのも事実である。第3節では、恵み野の現状と将来について考えてみる。

 

(1)恵み野の街づくりの今

 ハード面の街づくりが完了し、恵み野が公社の手を離れると、その後の恵み野の街づくりは住民自身の手に託される事になった。分譲期には「良好な住環境を持つニュータウン」というイメージが広まっていた恵み野であったが、その後の恵み野に定着したのは「花づくりの街」というイメージであった。
 ベッドタウンと花という、一見唐突に見えるイメージではあるが、もともと恵庭には花づくりが定着する下地があった。かつては重要な観光資源でもあった演習場内のスズラン狩りをはじめ、1961年には「花いっぱい文化協会」が設立され、長年活動を続けていたのである。また1984年には、「恵庭市花苗生産組合」が設立された。これは恵庭の札幌圏への組み込みのなかで、農家が花苗栽培という近郊農業への転換をはかったものであるが、現在では恵庭市の農業粗生産額の約1割を占めるまでになり、恵庭は道内有数の花苗生産地に成長した。代表的な例では、札幌大通り公園の花壇の7〜8割が恵庭産の花を使用している。
 このように花との関わりがあった恵庭市ではあったが、直接に恵み野に花づくりが広まるきっかけになったのが、恵み野西商店街の花壇づくりであった。前節で述べたように、恵み野の商店街の状況は必ずしも良好ではなかった。そこで商店街の婦人たちが、集客効果を狙って花壇づくりを始めたのである。この花壇が恵み野の主婦層に口コミで広まり、自宅の庭でもガーデニングをおこなう主婦が表れ始めたのである。さらに
1991年には、ニュージーランドのクライストチャーチでおこなわれているガーデニングコンテストを視察し、これを手本として恵み野西商店会主催で第1回フラワーガーデンコンテストが開催された。“花で彩られた美しい街をつくろう”という趣旨のこのコンテストは年々広がりを見せ、1994年からは恵み野西商店会と新たに住民によって結成された「恵み野花づくり愛好会」の2団体の共催として現在に至っている。このコンテストを含めた花づくり運動は、行政主導の街づくり運動とは異なり住民が主体的におこなってきた活動として評価が高く、恵み野花づくり愛好会が1995年「花のまちづくりコンクール」団体部門で最優秀賞の建設大臣賞を受賞し、1996年には恵み野西商店会が「北海道花と緑のまちづくり賞」の北海道知事賞を受賞した。
 恵み野のガーデニング運動は、こうして次第に広がりを見せていった。その運動は、
1990年代後半からのガーデニングブームの追い風を受けてより盛り上がっていった。恵み野がマスコミに取り上げられるようになっていったのである。花のづくりのまちとして恵み野が、さらには個人住宅の庭が雑誌・テレビなどに紹介されるに至り、恵み野住民の庭づくりや花壇づくりへの意欲がより増していくという循環の構造が出来あがっていった。現在では、この花の街づくりの視察目的で1999年には約50団体、1600人以上の視察団が訪れたほか、旅行代理店企画で恵み野の住宅街の庭を見て回る「恵み野バスツアー」が実施されるなど、恵み野の街づくりが全国的に評価されている。
 こうした恵み野の街づくりとイメージは、今では恵庭市全体に広がりを見せている。
1997年には恵み野西商店会に続き、「漁町商店街振興組合遊ingロード一番街」が「北海道花と緑のまちづくり賞」の奨励賞を受賞したほか、サッポロビール北海道工場も花と緑の工場づくりを掲げて受賞もしている。そして、行政も1998年に「花のまちづくりプラン」を策定し、“花のまち恵庭”という街づくり方針を決定した。この“花のまちづくり”という方針は、1999年に素案がまとまった「都市計画マスタープラン」にも盛り込まれ、恵庭の特徴を打ち出す方策として民家の庭を花で飾るプランが打ち出された。
 このように恵み野で始まったガーデニング運動と“花のまち”という街並みのイメージは、住民の手による街づくりということも含めて全国的にも評価された。そして現在、このような恵み野の街づくりは、恵庭全体に取り入れられ広がりつつあるのである。

 

 

(2)恵み野の課題

 現在も順調な人口増が続き、その街づくりも評価されている恵み野ではあるが、駅前商店街の不振を始め問題が無いわけではない。そのなかでも、従来の住宅団地に必ず共通して生じてきた人口問題の兆しが、恵み野にも表れて始めている。ここでは人口問題を中心に現在の恵み野の課題を明らかにする。
 住宅団地は新規に造成され、比較的短期間に分譲・販売される。そのため、どうしても住民の年齢構成に偏りが生じてしまう。したがって、分譲から一定の期間がたつと、その住宅団地全体が極端な高齢化を迎えてしまう恐れがある。実際、恵み野開発がおこなわれた時期には、関東・関西圏の日本でも最も早い時期に造成されたベッドタウンでは既に高齢化問題が表面化しつつあった。
 恵み野開発の計画段階においても、将来起こることが必至であった高齢化問題対策が検討された。そこで打ち出された方針は大きく2つあった。1つは、廉価な分譲価格によって若年層を、良質な住環境の整備によって老年層を引き付けるという販売計画であった。だが結局は、やはり恵み野には30代〜40代の団塊の世代が多く入居し、その効果は現実的には期待できなくなっていった。もう1つは、分譲・販売の期間を10年と比較的長期に渡らせることで、年齢の偏りを緩和する効果を期待するものであった。これは図表4−3で、地区ごとの人口増加の時期が異なっている(参考:p.61地図資料・恵み野地区別人口増加推移図)ことが読み取れるように、若干の効果を見た。このことは図表4−2と照らし合わせた場合に端的に示される。1990年頃から児童数が減少を続けている恵み野小学校は、分譲の早かった恵み野西と恵み野南を校区とする。一方、分譲が遅かった恵み野北と恵み野西を校区とする恵み野旭小学校の方は、それ以後も児童数を増加させているのである。
 しかし、ベッドタウンにとって年齢の偏りは、ある意味で宿命的問題でもあって根本的な対策なかなかに困難であった。
図表4−2からも、恵み野旭小学校の児童数ですら1990年代後半には、頭打ちもしくは減少傾向に転じていることが読み取れる。10年間という住宅団地としては比較的長期間の分譲ではあったものの、その効果は年齢層にせいぜい10年程度の幅を持たせる程度だったのである。結果として、図表4−4に示されるように徐々に恵み野でも高齢化の兆しが見え始めている。そして、このなかから1985年と10年後の1995年を取り出し、人口構成として表したのが図表4−5である。この図表4−5では恵み野の高齢化の傾向が、さらに顕在化する。
 
図表4−5から読み取れることを整理すると、1985年に最も人口が多いのは、いわゆる団塊の世代、なかでも30歳代であった。この30歳代は、恵み野の主要ターゲットでもあった世代でもあって札幌圏域に家を持つことを希望する夫婦がほとんどを占めている。したがって、彼らの子どもの世代である0歳〜9歳の人数も多い。逆に、団塊の世代の上下である20歳代と60歳代以上の割合が少ないことがわかる。それが10年後の1995年では、40歳代と10歳代の割合が多くなっている。それは10年前の1985年から見ると、1つ上の年齢カテゴリーにスライドするから、ある意味当然のことではある。そして、そのスライドは概してどのカテゴリーにも当てはまっている。そして0歳代の割合が減少している。したがって、全体として恵み野が高齢化に1歩近づいたと言える。しかし、この“順調な”人口スライドのなかで、1つだけ例外のカテゴリーが存在する。それは1985年の10歳代、1995年の20歳代である。他のカテゴリーが10年間で人口が約2倍以上に増加しているなかで、このカテゴリーは1985年が761人、1995年が1021人と増加数が少ない。つまり、このカテゴリーが人口に占める割合は明らかに減少しており、20歳代という若年層の減少・流出を示す。そして、これは恵み野の高齢化傾向を一層進めることにつながっている。
 この恵み野の
20歳代流出の主な原因は、1985年の10歳代で子どもだった世代が独立し、恵み野から離れていったことと考えられる。このことは図表4−6からも間接的に読み取れる。恵み野の1世帯当たりの人数は徐々に減少をしていて、分譲初期から見ると1世帯当たりおよそ1人が恵み野からいなくなっているのである。
 このように恵み野は、住民構成では
1985年の30代、1995年の40代の世代がもっとも多く、そのため徐々に高齢化が進んできている。現在は世帯数がまだ増加し新たな家族が流入しているので数字上はまだ急激にあらわれてはいないが、住民の高齢化という直接の要因のみならず、子どもたちの独立や出生数低下という要因も確かに存在し、その傾向はさらに強まっていくと考えられる。そして、恵み野の住宅が全て建設され世帯数の増加が止まった時、新たな出生はなく子どもたちは恵み野から出て行くという状況が、いよいよ表面化していくだろう。
 こうして近い将来に恵み野にも必ず訪れるであろう従来のベッドタウンが経験してきたのと同様の極端な高齢化。このときに、従来のベッドタウンとは異なる「“人間らしい生活とは何か”を追求したライフステージの提供」「
21世紀にもなっても新しさを失わない街づくり」というコンセプトでおこなわれた恵み野開発が真価を発揮し得るのかどうか。またガーデニングをはじめ、意識が高いと評価されている恵み野住民の街づくり活動は、そのときに果たして変化をしていくのだろうか。恵み野に高齢化が訪れた時が、今まで高く評価されてきて、現在は成熟期を迎えている感のあるニュータウン恵み野の街づくりが、真に試される時なのである。

 

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